令和7年度大学院学位記授与式 学長式辞
皆さんが研究に没頭したこの数年間、世界は劇的な変容を遂げてきました。混迷する国際情勢、加速する技術革新、そして深刻化する地球規模の諸課題。私たちが「文明」と呼んできた秩序がいかに脆いものであるかを、私たちは日々突きつけられています。
このような時代にあって、大学院という高度な知の探求の場を修了する皆さんの存在は、社会にとって大変大きな意味を持っています。なぜなら、混迷の霧を晴らすのは、単なる情報の集積ではなく、多角的で深い洞察に基づいた「真実を見抜く力」に他ならないからです。
世界各地で絶えない紛争のニュースに接するたび、私たちは人間の理性に絶望しそうになります。しかし目を転じれば、人類が掴み取ったいくつかの「希望」も確かに存在します。たとえば、私が長く研究で関わってきた南極を舞台に締結されている「南極条約」なども、その一つです。この条約のもと、南極は領土権の主張が凍結され、軍事利用が禁じられ、科学的調査のための国際協力が最優先される場所となりました。極限の環境において、国家間の対立を超え、人類が「知」を中心に結束している様は、混迷する現代社会における一筋の光であるように私には思えます。
私が専門とする研究分野の視点から、もう一つ南極にまつわる興味深い研究成果を紹介しましょう。南極大陸の大半を覆う大規模な氷河は、氷床と呼ばれ、古第三紀と呼ばれる地質時代中の約3400万年前に誕生しました。そして、つづく新第三紀中の約1400万年前に最大規模へと成長しました。しかし、地球全体がさらに寒冷化した現在を含む第四紀に入ると、氷床はむしろ縮小したことが知られています。
寒冷化が進めば氷は増えるはずだ、という単純な予測は、ここでは通用しません。極度の寒冷化が水蒸気の供給を断ち、結果として氷床の成長を阻害したのです。従って、南極の東半分を占める東南極氷床では、現在しばしば話題に上る地球温暖化が生じると、氷河が拡大する可能性すら予測されています。このように、自然界も人間社会も、一見、正解と思われる道筋が、必ずしも真理へと繋がっているとは限らないことはよくある話です。大学院での研究を通じ、皆さんはこうした『一見矛盾するような複雑な事象』の背後にあるメカニズムを、データと論理によって解き明かしてこられました。表面的な現象に惑わされず、その根底にある真実を多角的に捉える力。それこそが、皆さんが本学で手に入れた最も鋭い武器に他なりません。
私はかつてヒマラヤの小国であるブータンの地で、統計上の「貧しさ」とは裏腹に、自然と共生する人々の深い「豊かさ」を目の当たりにしました。既存の経済指標という一つの「物差し」だけでは、人間の幸せの全容を測ることはできません。研究には、まさにこの「既存の物差し」を疑い、新たな視点や尺度を見出す作業も含まれています。皆さんは、それぞれの専門分野において、先行研究の厚い壁に突き当たり、思うような結果が出ない日々に悩みながらも、粘り強く事実と向き合ってこられたのではないでしょうか。そのような過程で培われたのは、安易な答えに飛びつかず、論理の糸を一本ずつ手繰り寄せていく「誠実な知性」と「しなやかな知性」です。
現在、日本における大学院進学率は、先進諸外国と比較しても決して高いとは言えません。特に女性の進学率は男性の半分以下にとどまっており、意思決定の場における多様性の欠如が、社会の知的な活力を削いでいるという指摘もあります。本日、高度な専門性を身につけ、自立した研究者?専門職として羽ばたく皆さんは、南極条約が示すような「対立を超えた知の連帯」を担う、これからの社会の「先導者」となり得る存在です。本学大学院修了後、社会人として成長されることを期待しております。
皆さんがこれから踏み出す実社会には、修士論文や博士論文で取り組んだ課題以上に、複雑で正解のない問いが満ち溢れています。しかし、恐れることはありません。本学で一つの問いを極めた経験は、皆さんの背骨となり、揺るぎない自信となって皆さんを支えることでしょう。
先に述べました「誠実な知性」と「しなやかな知性」とは、謙虚でありつつも自らの信念を曲げずに不条理に抗う力であると同時に、変化し続ける世界に適応する力でもあります。専門知識を振りかざすのではなく、他者の痛みを想像し、対話を通じて新たな価値を共創していく。そんな慈悲深い知性を、これからの活動の根幹に据えてください。
最後になりましたが、皆さんが本学で磨き上げた知の灯が、この不確かな世界の行く手を照らす希望となることを切に願っています。皆さんの歩む道が、平和で、そしてさらなる真理の探究に満ちた豊かなものであることを祈念し、私の式辞といたします。
2026年3月24日
奈良女子大学 学長
高田 将志